文芸誌『竜骨座』

自由な創作活動を楽しむ文芸・文学サークルcarina。文芸誌『竜骨座』の作成。

映画『哀愁』(原題 Waterloo Bridge , 1940)

 Carina製作担当の廣瀬和巳です。
 この1年間をこの日のために費やしてきた、と言っても過言ではない文学フリマが終わり、
少し淋しい気もする今日この頃です。久しぶりにAmazon primeを開くと、『哀愁』という懐かしい映画が無料で公開されていました。

 7年前、大学2回生(京都大学を始め、関西の大学では学年をこのように表記します)の頃、塾講師のアルバイト終わりにTSUTAYAに立ち寄ると、『哀愁』という動もすると陰気臭く聞こえるこのタイトルのDVDを衝動的に借りました。
 高校生の時分には一丁前の映画フリークだった私ですから、黒澤明小津安二郎のモノクロ映画や、スタンリー・キューブリックのような前衛的な作品には慣れていましたが、あまり耳にしたことのないタイトルの外国映画を観るには勇気が入りました。
 
 ストーリーは、次のとおりです。WW1の最中のロンドンで、ロイヤル・バレエ団所属のダンサーでヒロインのマイラは、空襲を避け地下鉄の駅に逃げる中で将校のロイ大尉と運命的な出会いを迎えます。マイラのバレエ団は、団員の色恋沙汰など当然ご法度。それでもマイラは、この運命的な出会いを無駄にするまいとあの手この手でロイと会おうとします。ロイはスコットランドの名家の跡取りであり、結婚後は幸せな人生が約束されるはずでした。
 
 途中、ダンスホールでロイと踊る際にワルツとして流れる『蛍の光』は感動的です。しかし、時はWW1の最中であり、マイラと結婚の約束をしたままロイはフランスへ出征してしまいます。
 ロイとの色事が露見し、バレエ団を解雇されたマイラは、貧しさと絶望のあまり娼婦に身を落としてしまいます。カフェで新聞に目を通すと、戦死者の欄にロイの文字が……。
 しかし、時が経ち、死んだはずのロイと再会するところから物語はクライマックスを迎えます。

 この映画を観た1年後、私はバックパッカーとしてロンドンの地へ降り立ちました。Abbey Roadシェイクスピアの劇を一通り見終わったあと、Waterloo Bridgeへと足を運びました。
 
 どうってこともない橋で、ちょっと落胆しました 笑f:id:ryukotsuza:20201201123204j:image

ミントの本当の色

ミントが勢力を増してきたので、摘み取って、糸を染めました。

梨木香歩の『からくりからくさ』と『りかさん』を読んでから、時おり草木染めをします。
色は草木全体から出ます。花からも葉からも枝からも出ます。
たとえば桜の一番きれいな色は、花が咲く前の時期の枝が隠し持っているそうです。
草木の隠し持つ色を見つけることこそ、草木染めの魅力です。

そのためにミントを熱いお湯に沈めます。
色を抽出する行為は、草木の体を殺して、隠していたものを抜き出す残酷な行為です。
台所に立ち込めるのはミントの香りと、後ろめたい高揚感。

ミントからはちょっと奇抜な黄緑色が出ました。

そんな色を身にまとって町を歩いています。

苺月

苺月

こんばんは、月が綺麗ですね。
ええ、そうです。今晩は、とても綺麗な月が見られるらしいです。ストロベリームーンと呼ばれる満月だそうで、どこかの洋菓子店にありそうな、なんとも美味しそうな名前ですね。
なんでもアメリカ先住民の伝統的な満月の呼称らしいです。月ごとに呼称があり、一月はウルフムーン。三月はワームムーン。そして九月はハーベストムーンと、おや、こちらも美味しそうな雰囲気の漂う名前ですね。
さて、大して天体に詳しくもない私が、なぜそんな話をしたのかと申しますと、そもそもの発端は一年が十二ヶ月しかないことが原因なのです。
私は本日もいつものように仕事に勤しんでおりました。ええ、それはもう、馬車馬のごとく働いておりました。そんな折、ふとシフト表を見て思ったのです。
ええ、そうです。なぜ一年は十二ヶ月ではなく十三ヶ月なのかと、そう思ったのです。
だって、おかしくはありませんか?一年を十三ヶ月にして、一ヶ月を二十八日にして、ときどき閏日を入れちゃえば、その方がすっきりして見えるじゃありませんか。企業の皆様だって、絶対その方が勤怠管理しやすいと思いますよ。
でも、駄目でしたね。一年を十二ヶ月にしているのは、月の満ち欠けの周期によるものらしいので、そこを無視してしまうと「-月」と表記するのが妥当ではなくなってしまうのです。
それに、どこかの高名な学者さんだかが決めたことでしょうし、私は諦めるしかありませんでした。
そんなわけで、ついでに調べた結果、今晩がストロベリームーンの見られる日だと知ったわけでした。
ちなみにストロベリームーンは、恋愛成就に影響があるとかないとか。もし、その話を信じるのならば、誰か親しくなりたい方と月見と洒落込みてはどうでしょう?
私にはいませんけれども……
それでは。

皐月

取り留めのない話(五月は憂鬱の前触れ)

五月も終わりに近づき、政府は緊急事態宣言を解いた。まだ感染症の脅威が去ったというわけではないのに、なぜ解除したのか甚だ疑問である。
そして、私の職場も在宅勤務がなくなり、出勤しなければならなくなった。せっかくの朝寝坊が来月からなくなるかと思うと、極めて遺憾である。
こう言うと私は大変怠惰な人間であるかのように思われるかもしれないが、そんなことは多分ない。
だって考えてもみてほしい。外にはまだ、マスクをつけない無神経な爺やヒステリックを起こす婆、中には感染しているにも関わらず不幸のお裾分けを押し付けてくる暴徒がいる。こんな中、外に出たいと言うのは、陽キャかメンヘラくらいなものではなかろうか。
そう、我々はもっと自粛すべきなのだ。

それはさておき、件の感染症がなくとも、この時期が病みやすいものだと思う。季節の変わり目で体調を崩しやすいというのもあるが、色々限界のくる時期なのだ。
例えば、進学進級した者や新入社員などがそうだが、新しい部署に配属された者は皆一様に無理な表情を作る。いかに勤勉であるように見せかけるか、いかに面白い人間だと見せかけるか、策を弄し演じるのだ。
しかし、人間は所詮堕落した生き物に過ぎない。化けの皮が剥げるのも時間の問題で、その限界の時期というのが、まさにこれくらいの時期なのである。
かく言う私も、この四月に部署が変わり真面目を装ってきたが、いい加減バレる頃合いである。
いっそ逃げ出してしまいたい。そう言いたいところだが、私はインドア派なので引き籠りたいといった方が良いだろう。
そう、我々はもっともっと自粛すべきなのだ。

さて、これまで散々に自粛したいと書いたが、書き終えてみれば、まあいいかと思えてくるから不思議なものだ。
だから結局、ここまでの取り留めのない話が何だったのかというと、ただの愚痴だったというわけである。
それでは。

※おまけ
そういえば学生時代の話だが、ぼっちで無口な私は、この時期になってくると、クラスの陽キャが面白がって声をかけられて、夏頃にはすっかり飽きられるという経験を幾度となくしていた。これも人によっては病みそうな案件であるなと思った。

定例会活動 -視覚描写-

4月定例会をオンラインで行いました。
 
今回の活動は「視覚描写」。
各自が用意した写真を同時に共有し、それぞれの写真についてその場で文章を書いて見せ合う、というものです。
3枚の写真に対して制限時間15分で行いました。
 
ちなみに、活動の名は「視覚描写」ですが、見えたものから想像した物語を書いてももちろんOKです。
ひとつの写真に様々なストーリーが生まれます。
表現方法もバリエーション豊かです。
瞬間で想像力を働かせる練習になり、自分とは違う想像力に触れることで刺激ともなりました。
 
たとえば、この写真。
4月定例会をオンラインで行いました。
 
今回の活動は「視覚描写」。
各自が用意した写真を同時に共有し、それぞれの写真についてその場で文章を書いて見せ合う、というものです。
3枚の写真に対して制限時間15分で行いました。
 
ちなみに、活動の名は「視覚描写」ですが、見えたものから想像した物語を書いてももちろんOKです。
ひとつの写真に様々なストーリーが生まれます。
表現方法もバリエーション豊かです。
瞬間で想像力を働かせる練習になり、自分とは違う想像力に触れることで刺激ともなりました。
 
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たとえば、この写真。
みなさんはどのような物語を思い浮かべますか。

4月定例会をオンラインで行いました。   今回の活動は「視覚描写」。 各自が用意した写真を同時に共有し、それぞれの写真についてその場で文章を書いて見せ合う、というものです。 3枚の写真に対して制限時間15分で行いました。   ちなみに、活動の名は「視覚描写」ですが、見えたものから想像した物語を書いてももちろんOKです。 ひとつの写真に様々なストーリーが生まれます。 表現方法もバリエーション豊かです。 瞬間で想像力を働かせる練習になり、自分とは違う想像力に触れることで刺激ともなりました。   たとえば、この写真。 4月定例会をオンラインで行いました。   今回の活動は「視覚描写」。 各自が用意した写真を同時に共有し、それぞれの写真についてその場で文章を書いて見せ合う、というものです。 3枚の写真に対して制限時間15分で行いました。   ちなみに、活動の名は「視覚描写」ですが、見えたものから想像した物語を書いてももちろんOKです。 ひとつの写真に様々なストーリーが生まれます。 表現方法もバリエーション豊かです。 瞬間で想像力を働かせる練習になり、自分とは違う想像力に触れることで刺激ともなりました。   たとえば、この写真。 みなさんはどのような物語を思い浮かべますか。

 

 

数字と身体性

最近気になったのだが、数字とは記号が指し示している抽象概念だと認識しているのだが、人間は9999より1とか2の方が容易に把握できるのは、記号として数字が1に近い方が(ここでは難しいので正の整数に限定したい)身体的だからなのだろうか。
また、抽象概念が身体的であるとはどのようなものなのだろうか。
個数を数える文脈では視覚的情報も含め認知コストは低いと思う。個数の理解する際、数が小さい方が「ここには何個の〜がある」と認識するのが容易だと思う。
ただそれに加えて1や2は9999と理論体系の中では同等の記号であるはずが、1や2のほうが概念としても容易に把握できる(と大衆の中で思われている)ということはないだろうか。例えば幼児に1って何?と聞かれた際には我々は説明を試みるが、9999って何?と聞かれた際には「大きい数」という数で終わらせることはないだろうか。
指が10本だから10進法が普及していると仮定すると、数字が身体性を孕むのか、身体性が小さい数字を孕むのか、再考する必要性を感じた。

絵本について

絵本を読んで思うこと

新型コロナウィルス感染防止のための外出自粛期間、みなさんはどのように過ごされていますか。

先日、絵本を読む機会がありました。
子どもの頃に何度も読んだ(読んでもらった)本を今、読み返すと、
記憶に鮮明なのはストーリーよりも絵の方だと分かります。


たとえば、森の中で動物たちが焼いたカステラ。
甘い香りも、ふわふわな食感も、目の前のことのように想像したのを思い出します。

パッチワークの絵柄の世界に入り込んでしまう夜。
色とりどりで、スリル満点の絵柄の世界は、自分を取り囲む形で記憶に残っています。

お風呂に入ったきつねのぬいぐるみの尻尾はふっくらとして、
湯気の立つなめらかな肌触りは手に取るように分かります。


目が覚めるようでした。
絵からそういったことを想像していた感性を、忘れないようにしたいものです。

ちなみに、私のおすすめは『ちいさいおうち』という絵本です。
周りの景色が美しい田舎から窮屈な都会へと移り変わっていく様が、「おうち」の目線で描かれています。
この「おうち」がたいへん愛らしいのです。
昔からある絵本なので、ご存知の方も多いかもしれません。

かつて夢中になった絵本を引っ張り出してみるのも、ひとつの過ごし方だと思います。
感傷ではなく、次につながる発見があるのではないでしょうか。